大陸雄飛すること前後三回。
得意の文筆をもって無銭旅行をやってのけた。
大正十三年最後の「漫遊」を試みたときのこと。
税関の役人からトランクの検問を受けたが、塩田は
「これだけはあけるわけにはいかん」と拒んだ。
怪しんだ役人がひったくってあけてみると中身はよごれフンドシと大筆一本。
唖然とする役人をしりめに塩田はゆうゆう船に乗り込んだという逸話もある。
書は達人の域に達し、特に旧天草公会堂の表札揮毫(きごう)は
多くの人々の嘆賞のマトになったという。
今も各地にその墨跡が残っている。
中国革命の父孫文とも親交を結び、いよいよ大陸経営理想に燃えた。
しかしいかんせん塩田の思想はあまりにも高く、世間一般からは理解されずに終わった。
昭和の初め普選運動が起こるや、党派を越えて政友会の床次竹二郎、
民政党の安達謙蔵両長老のために弁士となり、全国遊説の途にのぼって家庭をかえりみなかった。
政治というより国事が好きだった。常に大きな理想を追い、目の前の小さなしあわせを
求めようとはしなかった。
戦時中は本渡市浄南で「一宇道場」を開き、青少年の指導に当たった。
自分の理想をあとに続く若者に残そうとしたのだった。
「一宇」の二文字に塩田の面目躍如たるものがある。
かつて米飛行機が本渡市錦島に墜落したとき、早速駆けつけて飛行士を弔い
敵味方忘れて花の浄土かな
の一句を手向けた。昭和二十七年同道場で死去。七十六歳。
翌年には塩田門下生が相はかって新和町小宮地に立派な記念碑が立てられた。
塩田もまた明治を形成した群像の中の一人であった。
おわり
塩田平治(のお孫さん)
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