天草陶磁器

陶磁器


 天草陶磁器の原料となるのが天草陶石ですが、天草陶石は江戸時代の発明家「日本のダビンチ」と言われた平賀源内が、天草陶石のことを「天下無双の品」と褒め称えています。このように、質・量ともに日本一との定評があり、焼物の原料として昔から利用されています。

 

 また、当時の天草は天領であったため、御用窯としてではなく、村民が自分たちの生活のために焼いていたことから、各窯元独自の自由な作風が発展したといわれています。

 

 このような、恵まれた環境のもと、天草では江戸時代の1673年に内田皿山焼、1762年には高浜焼の窯元が磁器を焼き始めました。1765年には水の平焼が陶器を焼き始め、現在は天草に30軒を超えるをの窯元があり、天草陶磁器の伝統が継承されています。

 

 天草陶磁器とは、天草地方で焼かれる陶磁器類の総称で、平成15年に国の伝統的工芸品に指定された際に、新たに名付けられることになった呼び名です。

 

 

南蛮てまり

 南蛮てまり

 南蛮てまりは、昔から天草地方の女の子の正月遊びとして親しまれてきました。しかし、明治の中頃からゴムまりなどの普及により、次第に制作する人が減少し、昭和30年代には一部の人でひっそりと作られる程度となり、消滅の危機にありました。

 

 そこで、消滅を危惧した本渡市婦人会が昭和39年、当時の副会長であった乗富ハルエさんを中心に、その伝統の技を蘇らせ、現代へと継承されました。

 

 南蛮手まりは、綿を丸めて球をつくり木綿糸等で形を整えて「土台まり」を作り、「地割り作業」を行い、飾り糸 ( 南蛮手まりはリリアンを使用 ) でかがり、最後に金糸・銀糸で仕上げるというのが基本的な制作工程です。

 

 現在は「土台まり」の芯を作るのに、丸い発砲スチロールに綿を巻き、綿が見えないくらいまで巻き糸で巻いて土台まりを作っていますが、昔は芯にヘチマや海綿・ぜんまい・木綿などを使い、それを真綿でくるんでいました。特に海岸部では、弾力性があり良く跳ねることから、海綿を芯に使用されていたようです。

 

 近年、南蛮手まりは昔のように手にして遊ぶのではなく、世相に合わせて装飾用や贈り物として人気を博しています。令和4年度に熊本県伝統工芸品に指定されました。

 

 

天草押し絵

 天草押し絵 写真


 押し絵 (おしえは花鳥、人物などの形を厚紙で作り、これを布でくるみ、中に綿をつめて高低を付け板などに張り付けて仕上げる布細工の一種です。


下絵を厚紙にのせ、上から輪郭をなぞり、溝を作ります。この溝にそって型紙を切り抜き、ちょうどパズルのように全体をばらばらに分解します。このチップに、裁断した布を糊で貼り付けて、中に綿を詰め込んでいきます。そうしてできた何十個もの部品を組み合わせて貼りつけて絵を完成し、固定します。

 

 天草では、江戸時代から作られていました。江戸時代以降は、島内各地で細々と作られてきたそうですが、上記写真の作品を制作された赤松フサ先生が作り方を多くの方々に指導し、その門下生の方々が『天草押し絵の会』を結成、伝統工芸として継承され、現在に至っています。

 

 彩りが美しく、家の新築やお店の開店の際に、壁掛け等の贈答品として広く喜ばれています。

 

 

天草竹細工

天草竹細工 写真


 本町の竹細工は、250年以上の伝統があり、本町宇土の窪地伸右衛門がしょうけ作り(竹細工)を始めたといわれています。「木六竹八」と呼ばれるように、竹の伐採時期は陰暦の8月以降が最も良いとされているため、この時期に真っ直ぐに伸びた素性の良い用材を大量に蓄え、これを加工しています。

 

 昭和30年まで生活用品、農耕具として広く使用されていました。現在では化学製品の普及により需要が少なくなりましたが、質の良い真竹を素材にした天草竹細工は、県の伝統工芸品として指定を受けています。


 代表的な製品は、一斗じょうけ・こまじょうけ・飯じょうけ・柄付けじょうけ・目籠・手籠・醤油手籠・花籠・蚕籠などで、実用性と優美さを兼ね備えた手作りの工芸品として有名です。

 

 名人として名を馳せた5代目多吉氏によって天草一円にその技術が広まり、7代目貞由氏は、卓越した技術が認められ物産展におやいて金賞を受賞。その他数回にわたり表彰を受けました。

 

 8代目窪地成俊氏は、昭和59年、繊細な竹細工の技術と実用性と美しさを兼ね備えた生活用具としての竹かごが評価を受け、熊本県伝統工芸継承者として認定されました。

 

 

天草土人形

天草土人形


 天草土人形の始まりは、享保2年 (1717)初代・広田和平が、本町の東向寺の参道で茶店を開き、その傍ら仏像を作り、それからいろいろな土人形を作るようになったのが始まりといわれています。

 

 型に粘土を入れ、貼り合わせて人形を成型し、素焼きをした後に絵付けをするという工程で制作します。人形の型は100種類ほどありますが、中でも山姥(やまんば)と金時(子どもを抱きかかえている女性)は、天草島原の乱後、キリシタン弾圧の時代には、隠れキリシタンに信仰されたといわれています。(聖母マリア像の代わりとして)

 

 この土人形は、広田家で7代にわたって制作されました。戦後に廃業され、途絶えていましたが、江戸時代から続いた地元の伝統工芸を絶やすのはもったいないということで、地元の有志の方々が中心となり『天草土人形保存会』を立ち上げ、令和4年度に熊本県伝統工芸品に指定されました。


 土で作られており、子供が人形で遊んだあとは壊されていたので、古い時代の保存状態のよい土人形はほとんど残っておらず、とても貴重です。

 


天草バラモン凧

天草バラモン凧 


 バラモン凧は江戸時代の初期、ポルトガルの宣教師とともに伝えられたと言われています。細い竹ヒゴを巧みに組み合わせて作られており、凧の裏側の頭の部分に竹をしならせてひも()を張った「うなり」という弓を付けるのが特徴です。実際に風を受けて大空に舞うと、「ブーンブーン」という大きなウナリ(音)をあげます。


 バラモン凧は、長崎の五島や壱岐、平戸、そしてこの天草など、全国的に見ても、九州、それもほとんどが西海岸に限られていると言ってもいいくらい限定された地域にしか伝わっていません。


 現在、天草市内では本渡町や志柿町、下浦町、倉岳町宮田、新和町中田や河浦町などで作られていますが、特に新和町中田の田導寺(たどうじ)地区では、戦中、戦後に途絶えていましたが、代々続いた伝統をなくしてはいけないということで、地区 11戸で田導寺バラモン凧保存会を作り、伝統を受け継いでいます。


 現在、各地区で凧を作られている個人や団体が参加して『天草凧の会』を設立し、伝統工芸を受け継ぎながら、長崎県内の凧の会などとの交流も深めています。