深海の「地蔵さん」巡り

④ 子下し(こくだし地蔵さん

下平の中村商店から左折して「菅(すげ)」「水道(みど)」の方へ九十九折の

狭い坂道を上っていくこと車で10分。右側の山肌にへばりついたような祠が見える。

④子下し地蔵さん01

この祠は、平成三年五月吉日建立(地蔵様は昭和18年寄進)

山下孝幸・山下為雄・岡崎哲郎・瀧下将秀・山下一文氏の名が記されている。


④子下し地蔵さん02

ほうきも備え付けられ綺麗に整理されている


④子下し地蔵さん03

ここのお地蔵さんは涎掛けが何枚も何枚も重ねてある。亡き子どものことを案じてか?


④子下し地蔵さん04    ④子下し地蔵さん05 

お地蔵さんは二体あって右側の方には正面に「南无地蔵尊菩薩」とあり

右側面に建立年、昭和十八年三月吉日とあり、

左側面には寄進者の山下シミ・同 イマ・大田ミツヨとある。


④子下し地蔵さん06     ④子下し地蔵さん07

左側の地蔵様には正面に「奉寄進」「南无地蔵菩薩」「當地 山下タミエ」とある。

右の標柱は「去家(さるや)」という地名が珍しかったのでここに掲載。

以前は家があったが今では人が去って無いと言うことか。

当時、昭和18年の出来事は、

・2月日本軍ガダルカナル島撤退 ・4月山本五十六長官戦死 ・5月アッツ島日本軍全滅

・6月学徒戦時動員体制 学生の勤労動員 ・12月徴兵年齢一年引き下げ 予科練の歌が流行

翌19年には・9月17才以上を兵役に編入 10月神風特攻隊初出撃

未婚女性徴用 竹ヤリ訓練 タバコ配給1日6本 B29東京爆撃 ラバウル小唄流行

このような時代の中にお地蔵様を寄進するということは、

銃後の女性として何かの思い入れがあったのであろう。

(当時小生は師範学校入学・14才

④子下し地蔵さん08

(この写真は19年春)


④子下し地蔵さん09④子下し地蔵さん10

下平地区の字名地図です。


④子下し地蔵さん11

通りがかりの人が気づいた時に花をあげられるそうだ。

「今朝私が換えておきました」とおっしゃる、平 実さん。


この「子下し地蔵様」のいわれは?

昔々、下平から農作業に来ていた女性・特に妊婦さんたちは姑の眼もあってか、

臨月になっても朝早くから夕方遅くまで畑に出て働き、

それが下で流産をしたり、とうとう畑で出産なされた方もあったとか。

不幸にも子どもさんを亡くされ、中には母子共に亡くなられたとか?

そこから「子下し」の名が付いたと聞いた。

そんなことから、昭和18年に皆さんで話し合われて

当時の女性たちのことを慰めようと、

また、後世に伝えようとお地蔵様を寄進なさったのだろう。

私は、今まで「木下し」(こくだし)とばかり思っていた。

当時は「休み場」(やすんば)もあった。

木材を運ぶ途中、山師さんたちがタバコ一服の休憩をされたのだろうと思っていた。

こんな悲しい物語を秘めたお地蔵さんであったとは?

なるほど、そう言われてみると寄進者・建造者はみな女性である。

現存する人がいないので確かなことはわからない。

「泣き河原の浜」(なっごらんはま)の話よりも,もっともっと切ない話ではある。

もしご存知の方がいらっしゃったらお教えお願いいたします。

証    言

① 下平出身のKOさん(現在大阪にお住まい)から、

「畑で生まれた子どものことは家の母方の祖母のことです。

幼い頃母から良く聞かされていました」との証言を戴きました。

 家の母も戦後、本郷でもこんな事があったよと教えてくれました。


「峠の地蔵様にまつわる悲話」

④子下し地蔵さん12

④子下し地蔵さん13

弘美さんの投稿を見た、と言って濱先生からはがきを戴きました。


子 下 し 地 蔵   作詞 深海魚

       註:石山さんのお話を読んで、何とかこのことを後世に残したい

     と思い、私の拙い智慧を膨らませて「詩(ウタ)」を作ってみました。

ご感想をお聞かせください。

④子下し地蔵さん14

④子下し地蔵さん15


④子下し地蔵さん16

濱先生からのはがき


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