2004/ 8/15 孫子に伝えたい「終戦の道」(22/8/15)再掲 65年経った今でも忘れることの出来ない私の昭和20年8月15日、終戦の日の出来事。 母の病気で天草に帰省していた私は、8月10日の熊本空襲で京町台の学校も寄宿舎も焼けたことを知らずに学校へ、14日である。そして、当直の教官がいて皆は罹災証明を貰って帰って行った。 お前も帰りなさいと言われた。当日いなかったので当然罹災証明はもらえなかった。 焼け残った教室でテントを着て一夜を明かした。
翌朝(15日)は3時頃から上熊本駅にキップを買いに行ったがもう行列が出来ていた。 しかし、緑川の鉄橋が爆破されて汽車は通わないと聞かされて、下りの客はぞろぞろと暗い道を宇土駅目指して歩き出した。 朝方に宇土駅についたが満員で乗れないと言う。そこで途中の小さい駅なら乗れるだろうとまた歩き出す。この頃は、歩く事が普通だったのでそうきつくも感じなかった。いつの間にか、今の57号線はぞろぞろと歩く人の列が続く。途中で一緒になった長崎から来たと言う小父さんから「新型爆弾」「ヒカドン」(原子爆弾)の話を聞いた。きのこ雲がとても大きかったとのことだった。 次の駅についてもダメ、また次の駅へと歩いてとうとう夕方暗くなった頃に三角駅についた。 そこで初めて「終戦」を知らされたのだった。 歩いている途中であの「終戦の玉音放送」があっていたのだ。親切な小父さんは 「学生さん今夜寝るところは?」と聞かれたので「駅で寝ます」 といったら 「じゃ付いてきなっせ」と言って自分の知り合いの家へ泊めてくださった。 とても有難かった、後で探したが判らなかった。
終戦も知らずに熊本から三角まで歩いた、今日は「私の終戦記念日」です。
(昭和19年春、 熊師予科 2年2組・甲斐研治) ちなみに当時の私の服装は、国防色の国民服(上記)に よれよれの戦闘帽、それに水筒・命の綱の蒸しコッパの入ったリュックを背負っていた。
熊日へ投稿 この方とは,年齢も近く、1日違いで同じ道を歩いているようです。 私たちもお金を出し合って発動汽船を本渡まで出してもらいました。
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