研治父、甲斐 要(s,12,5,21,没享年42歳)
研治母、フジヨ(s,24,5.9,没享年47歳)
母 の 想 い
昭和12年春、連れ合いを亡くした母は、自分の故郷牛深に帰った。
そして子どもを養うために復職した。12年秋、富津小学校だった。小生3年生・弟1年生。
昭和15年春、母は深海小へ転勤。私が六年生であった。
六年生になると受験勉強があった。
当時の男の子は、時代を反映して中学校(旧制)へ進み軍隊へ行くことに憧れていた。
私も当然そうだった。しかし、母は「高等科
から師範へ行ってくれ」 と哀願した。
母の頭のなかには、父の跡を継
がせたかったのと、お金のかからない学校(官立)、
それに何よりも「命」を考えてそう言わせたのだと後になって母心を知った。
仲間が、中学校へ入学して行くのを横目に高等科へ進んだ。
そして、母の希望通り18年4月「熊本師範学校」へ入学することができた。
昭和20年8月15日終戦。
母は昭和22年に新しく出来た「深海新制中学校」へそして私は昭和23年4月「深海小学校」へ新卒赴任。
親子で同じ深海村の小中学校に勤務することになった。
当時、仲間は兵隊から引き上げてきても職がなく、仕方なく代用教員になる者が多かった。
こちらは、訓導・正教員、正に母のおかげである。
私も四十一年の勤務を無事に終え、さらに退職後十年。今年はその母の五十回忌、勿論父の五十回忌はとうに済ませた。父享年四十二歳、母享年四十七歳。母が私に与えた「命を大切に」と言う無言の意志を継いで若くして亡くなった両親の歳を加算した「八十九歳」まで生きることを目標に決め、一日一日を大事にして一年でも長く両親の供養をし、目標を達成できるようお仏壇に手を合わせ南無阿弥陀仏と念仏を唱えている昨今である。
幸い家内の母が八十八歳で元気。良いお手本が近くにある。現在、六十九歳、あと二十年。(h.10.10.10)
あれから6年、75歳。あと14年となりました。(母は95歳)(h.16.12.18)
さらに2年が経ち、77歳。あと12年となりました
。(母は97歳)(h.18.12.18)
三ヶ月入院の病気はしたが、今は元気。あと10年となった何としても果たさなくては?
(20年2月25日)
二十一年三月八日・あんなに元気だった母が亡くなった。
たった一晩の入院だった。九十八歳を期に旅立った。
平成22年2月25日、満81歳となる。あと8年となる。
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