皆さんこんにちは♪2021年も残すところあと1ヵ月を切りました。今年4月に、新しい下津浦地区コミュニティセンターが開所しました✨
↓ ↓ 新コミセンが建つ前
昭和49年から25年間下津浦保育園として。数年間は利用されていませんでしたが、その後は下津浦地区コミュニティセンターの分館として存在していました。
ちょっと話は逸れますが、今年、二十数年の時を経てまたロングブーツが流行しています。ロングブーツを見ると管理人は『アムラー』という言葉を思い出す。※アムラーとは安室奈美恵さんを模倣したファッションをする人のことです。
管理人はアムラーではなかったが、ロングブーツは履いて、休みの日に同僚と出かけてはプリクラを撮ったり、カラオケ🎤で安室ちゃん(その他いろいろ当時の流行り)の新曲を取り合うかのように出しもきらん高音にチャレンジしたものです(〃艸〃)
↑ ↑このように、ロングブーツというワードだけでもこれだけ思い出すことができます。
過去のブログ・・・ 『46年間ありがとう そしてお疲れ様でした』 ↑ ↑ これは上の写真の分館の解体時に過去を思い出して書いたものです。
↓ ↓ こちらは旧コミセンが建っていた場所です(12月3日撮影)
コミセンの解体工事の工期(11月末)が終わり、先週12月3日の検査終了後コミセンの駐車場となりました。
建物はなくなりましたが旧コミセンについて管理人なりに書きたいと思います。
※これより先は過去の写真ばかり載せます。
旧下津浦地区コミュニティセンターは昭和52年に下津浦公民館として誕生しました。
当時は市役所(現在の出張所の職員)の方と、現在の簡易郵便局の局長さんの役割の方と2人で勤務されていたようです。
管理人の通学路の途中にありましたが、2年間通った下津浦小学校からはすぐ近く下校時たまに本を借りたかなあ?たまにトイレも借りたかなあ?とにかく、”ここはお仕事をされている所だから気軽に寄ってはいけない場所”という認識でした。
玄関のすぐ横にあった円柱状のポスト。
寄った時は →(矢印の位置にポストがあり)ポストを軸にイメージ的にはアナと雪の女王のアナまたは塔の上のラプンツェルが劇中でやってそうな動き? あるいは牧野ステテコさんのポールを軸にやってそうな動き・・・え?わかりにくいですか? 普通にポストを軸にグルグルと数回回って遊んでいたと書けばいいのですね!
このポスト横には下津浦の住民にのみお知らせする防災無線?か何かの箱があったそうで、管理人の1つ上の先輩Оさんはそれを触って怒られた覚えがあるそうです。管理人は怒られてないからその箱があったことすら覚えていないのでしょうね( ´∀` )
また、土曜日の午後なのか?日曜日だったのか書道教室が行われていて、管理人の3つ上の姉がここで習っていました。
また、地区振興会発足して数年間は産業祭も行われていました。
有明町のうまかもん収穫祭の縮小版のような、下津浦住民の産業祭です。
おろよかっ祭 この時は平成22年の第4回目です。
よく、お野菜を頂くときに『ちっとおろいかともあるばってん!』などと言ってくださることがあります。”おろいか”は方言で悪い、粗末なという意味です。意外とそのように言って頂いたお野菜が美味しかったりするんですよね~。だから管理人はその方が謙遜して言われてるのかな?と思ってましたが、作り手としては他人に、ほんとはおろいかとはあまりあげたくない、納得いかないのかもしれませんね?
あと、方言でけっこう強い口調で言う時に『〇〇したっさい!』※叩かれたときに『痛かっさい(--〆)』などと言う時のさいと祭(サイ)を掛けてあるようです。
おろいかっで よかっさい →おろよかっ祭 のようですよ!
方言はいろいろなニュアンスで使えます。方言を話せる=訳して標準語に変換できるということは?ある意味二か国語話せるのと同じくらいの能力かもしれませんね?
この時、管理人は初めて参加しています。よそにずっと住んでいて生活の拠点を下津浦に移した年です。管理人も後ろの方に写っていました。この時、数年後に自分がここで働くなんて思いもしてません。
それにしても11年前・・・皆さんお若い!そして活気があります✨
ここでは場所が狭かったのでしょうね?
翌年の5回目は下津浦体育館で行われていました。
大会議室では・・・【子ども会の太鼓踊りの練習】
【敬老会】
【調理室】料理教室
【子ども料理教室】
コミセンで行われてきた様々な行事。
懐かしい写真がいっぱいです📸
管理人の年度はじめの仕事・・・鯉のぼりの仕分け作業🎏
昨年度の雛人形飾りは現在の建物建設中のため、旧コミセンの玄関前でした✨
他にも思い出は書ききれないほどあります。
建物がなくなってしまった今も、記憶と写真などで鮮明に覚えているものです。
子どもの頃はあまり縁のなかった場所ですが、長年お世話になりました。
これからもずーっと地域住民の皆さんの中に、管理人の記憶の中に残ると思います。
『44年間お疲れ様でした そして ありがとうございました』