石本平兵衛(いしもと へいべえ)は、天明7年(1787)、御領村旧家石本家の長男として生まれ、幼少より神童の誉れ高く、少年時代は、長崎に出て、語学・経済・貿易等の学問を修めた。才覚大いに優れ、後海外貿易業界の雄となり、三井・住友・鴻池等の財閥と比肩されるに至った。天保5年(1834)、幕府は平兵衛の卓越した財政手腕を認めて、勘定所御用達を命じ、大名なみの待遇を与えている。

 平兵衛は、特に難民救済に力を尽くし、文化・天保時代の大飢饉には、天草をはじめ、長崎・宇佐・江戸等の各被災地に多くの救援米や巨額の私財を送って救世済民に精根を注いだ。天保13年(1842)4月、高島秋帆事件に連座、無実の罪に問われ、江戸送りとなり、天保14年(1843)、獄中で病没、57歳。

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 石本平兵衛

 

 

豪商松坂屋(石本家)屋敷

 

 屋号は「松坂屋」、初代治兵衛は、寛永年間(1624~1644)に長崎より御領へ移り住み、農業を営む。

 天保5年(1834)、五代勝之丞(後に平兵衛と称す)が幕府の御用商人となる。敷地は、江戸時代百姓として許された最大限のもので、広さ約1,200坪(3,900㎡)ある。住居(一部3階建て)は、正連寺(御領)に庫裡として移され、当時の建物は蔵1棟が残されており、石垣が往時の面影を偲ばせている。

 石本家は、代々貧民救済にも力を注ぎ、天草全土を揺るがせた弘化4年(1847)の大規模な百姓一揆の際にも打ち壊しを免れている。

 

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石本家の立派な御領石の石垣。当時の御領石工の技術を集めた緻密な石垣です。