○あたご神社

 方原に所在。方原は、平家の落人浦上清兵衛という武士が逃れてきて、方原川を川上へ登り、この山間の盆地に土着したのが開祖と伝えられている。その開祖の苔むした墓石は今も残っており、その霊を祀ったのが「あたご神社」であるという。この開祖のことを「きりあげどん」と呼んでいる。「きりあげどん」が方原川を登ってくるとき、方原区の中央にある「(まつり)(ぶち)」までくると、滝淵の水面に大蛇が鎌首をもたげ「ここから上へ行くことはならぬ。行くと一呑みにするぞ」と赤い舌をだして「きりあげどん」に襲いかかろうとした。「きりあげどん」は、ぶるぶるふるえながら、「大蛇さま、お見逃し下され、見逃してくれれば、孫子の末まで、秋の取り入れのすんだ日、しとぎ(米を水につけて、乾かしたもの)と甘酒ば供えやす」と頼んだら、大蛇はかき消すように無くなったという。そして、「許す。が約束を破ると、方原卿の者は呑みにくるぞ」と、大蛇の声がした。それから、「きりあげどん」は、祭淵を過ぎて上田原の杉山を通って、現在の浦上五平衛さんの所に家を造って住み、この方原盆地を開拓して立派な田にされたという。その後、秋の収穫が終われば、祭淵にしとぎと甘酒を供えている。

 

(まつり)(ぶち

)

方原川の一つの淵。狭い岩間を滝が落ちて水音があたりに響いている。この淵には、昔この地区の雨乞いの祭りがあったところと伝えられている。地区の氏神「十五社宮」に3日間の雨乞いの願いをかけて雨が降らないときは、地区民が総出で楠浦湾の五色島に行って、そこの塩水と砂を持ってきて十五社宮に供え、庵の井戸端にある鐘を打ち鳴らして、庵から祭淵まで行き、その鐘をこの淵に沈め、そのまま地区民は、不眠不休で雨を待ったという。こうすると、4、5日のうちに必ず雨が降ったと言い伝えられている。こうすると、4、5日のうちに必ず雨が降ったといい伝えられている。それで、この淵を「祭淵」と呼ぶようになった。

 この淵の底は800メートル下流の男渕(おぶち)に通じているといわれ、またそれから100mメートル下流の()(ぶち)がある。この雨乞いの行事は昭和のはじめまで行われていたが現在は行われていない。

             

 

○半兵衛が滝

 昔、源平合戦で源氏に敗れた平家の落人で半兵衛という武士が、方原までまぬがれてきた、源氏から追われて、方原川の滝のところまできて、逃げ場がなく、その滝から滝つぼの岩場に飛び降りたという。その時、半兵衛は下駄をはいていたが、その岩場に、下駄の跡がついていた。そのことがあってから、そこを半兵衛が滝と呼ぶようになったと伝えられる。

                  (熊本の滝より)

 

○呑みのこしの地蔵

 方原地区わね口にある。昔方原に大酒飲みの人がいた。仕事もろくにせず、家の財産も抵当に入れて酒を飲み、すっからかんになったので、先祖に申し訳ないと思い、供養のために、残っていたお金で地蔵さんを刻んで祀ったという。その地蔵さんを刻むだけしか金は残っていなかったそうである。

 また、一説には、今の道路ができたとき、地蔵さんを建てて、皆で祝酒を飲んだとき、飲みきらないで残った酒を供えたので「呑みこしの地蔵」というようになったとも伝えられている。

 

○帽子岳

 楠浦の西部にあり、標高464メートル、山の頂上が樹が茂っており、ちょうど帽子をかぶった形で「帽子さま」と呼んでいる。この頂上の森の中に、日本でも珍しい『蟻よけの神』が鎮座している。その付近の土を取って神様にお供え、代わりに頂上から土を持ち帰ってまけば蟻はたちどころに退散すると伝えられている。今も古老たちはそれを実行しているという。火祭りで有名な秋葉様、その他3体の神が祀ってある。また、この山上一体には貝の化石が岩間に多く見られ、その種類も、蛤、あさり貝、巻貝など豊富である。今から80年前、学童がカニの化石を発見し、それを持ち帰って水盤に入れたところ、しばらくすると動き出し、口からぶつぶつと泡を出し生き返って評判になったという。このカニは、昔弘法大師が、天草を巡錫されたとき放されたものと信ぜられている。祭礼は、毎年旧2月16日、行なわれる。この祭りが行なわれる頃になると山頂一帯の「帽子花」と呼ばれる花が、真っ白く咲いて山を彩る。