福連木国有林のことを「官山(かんざん)」と呼ぶ。

 私たちの遠い先祖たちが、「官山」と呼ぶようになったのは徳川の初期からである。棒術なるものが興り、やがて槍術が生まれた戦国の世も治まった頃、大阪武士の間でこの山の"樫"が槍の柄に使われていた。

 ある時、四天王寺に火事が起こり、現場に駆けつけた一人の武士が持つ槍の柄の優れていたことが評判となり、それが将軍家の知るところとなったためといわれている。

 万治元年、(1658年)徳川4代将軍家綱の頃から、安政5年(1858年)徳川家定まで200年という長い年月、樫の木は幕府納めとなった。

 槍の柄となる樫は「ハナガガシ」が最良とされていた。伐採された木はそれぞれの長さに切られ、下田へ運ばれ、一週間塩漬けにされ、筵(むしろ)に包まれ、海路大阪へ送られたと伝えられる。この間、警護は厳重で沿道の住民が土下座させられたのは言うまでもない。

 この官山がいっせいに新緑の芽を吹く初夏の眺望は、見る人の目を欺くばかりの景観となり、文人墨客の畏敬の的となった。

(天草町郷土史より抜粋)

 

○昔の角山から木を搬出する時の風景写真(きんま)