宮森先生や看護師さんたちに見送られて、病院を出る時外は暗くなっていましたが、パラパラと雨が降ってきました。とても印象的でくらい空を見上げた記憶があります。正行寺さん、主人の弟や姉たちの連絡、船橋で呉服屋をやっていた幸子姉が白装束の羽織袴を届けてくれて着せました。身内だけで家で見送りたいと思いました。義母の実家が浅草の「土手の加藤」という材木屋だったので、棺はヒノキの椋を頼みましたが葬儀屋さんが、東京の西の彼方(日の出町)からやっと探し出してくれました。遺骨は備前焼の壺に納めました。宮森先生には優しくして頂いて有難かったです。その後緩和ケア病棟が出来て、要請を受けてサンルームで(井田病院絵手紙クラブ)をはじめ今日に至っています。岡山から毎年この日にお花を届けてくれる田畑輝昭・とし子さんがいます。有難いです、有り難うございます。子供のいない私はその時から自分の最後を考えてあと十年くらいかなぁ~、などと思っていましたがなんと25年が経ちました。盲腸しか病まなかった主人が先に逝ってしまうなんて!昨日も姉が(迎えに来てくれない!)と言うので正行寺の白石先生の言葉を思い出して姉に伝えました。(迎えに来てくれないで生かされている、と言う事は、その人がまだやるべきことが残っているからなんですよ!)私も、できる事は何か、何をなすべきか、姉と一緒に考えさせられました。今日はこれから美容院に行って夕刻お仏間に入ります。
2022年01月31日更新