羽田発大阪行き日航機123便が御巣鷹の尾根に激突520名の尊い命が失われ、日本はもとより世界中を震撼させました。昨日8月12日はあれから30年、生存者4名、救助にあたった自衛隊、警察、消防、医療関係者、消えることのない遺族の痛み、そして加害企業の日本航空側、それぞれにとって長い苦しみの経過でした。TBSテレビで「8・12日航ジャンボ機墜落事故30年の真相」と題して3時間番組を視ました。一見立ち直ったかに見える遺族の方々も未だ哀しみ苦しみを抱え、乗り越えそれぞれの思いを抱えて頑張っています。あの日私は、ハワイからのお客様を新宿のホテル迄お送りする途中の車の中で第一報を聞きました。(どうしたのかしら?)と不安になったのをはっきり覚えています。

この事故よりも15年前、昭和45年8月10日、従兄の富塚 勲さんがセスナ機を操縦して、東京調布の飛田給飛行場から友達とその娘さん3人で広島に向け飛び立ち、広島の白山にぶつかって3人とも亡くなりました、37歳でした。あくる日早朝のNHKテレビで千葉県流山に住んでいた両親は最初は同性同名の人がいるものだ、と思ったそうですが、顔写真がでて愕然としたそうです。墜落現場も新聞に載りました。数日して勲ちゃんは迎えに行った弟の信之さんと一緒に骨壷の中に入って帰って来ました。勲ちゃんは、早稲田大学に通った4年間、上野の私達の家から通学しました。私の母と勲ちゃんのお母さんは姉妹です。大学に通っている間に文姉と仲良くなり周囲の猛反対を押し切って結婚しました。この事故の時には、いろいろなことが有って二人は離婚していましたが、私達にとっては従兄であり、叔父叔母です。知的障害を持つ一人息子も遺されました。衝撃は大きかったです。今、勲ちゃんの両親、4人兄妹皆亡くなりました。姉も亡くなりました。姉は亡くなる時、障害を持つ息子、哲也の後見を私に託しました。哲也も今では52歳、天草市五和の「障害者サポートセンターゆうすい」に入所しお世話になっています。美男美女のカップルであった両親の結婚式の写真をお部屋に飾って喜んでいる顔を見るのも辛いです。

毎年8月は、広島・長崎の原爆慰霊祭、終戦記念日、お盆、すべては遠い儚い哀しみとともに私の脳裏から無くなる事はありません。

2015年08月13日更新