姉が持っていた写真の中に兄の写真もありました。戦争が始まって兄は陸軍兵器学校に入隊、神奈川県の淵野辺にある学校に母と面会に行った事があります。兄は直立不動で母に挙手の礼をし母は泣いていました。女所帯の中の男一人、かなりワンマンで威張っていましたが、私は末っ子だったので勉強を教えてくれたり可愛がられました。昭和60年の頃、中国観光の漓江下りの船の中で脳梗塞を起こし、桂林の市民病院に運ばれ手術を受け、そこに居合わせた熊本県天草の慈恵病院の永野義孝理事長先生に巡り合い、天草に退院、そこでリハビリに励みました。ここから私にとって第二の故郷となった天草とのご縁が生まれました。私達姉妹は天草に駆けつけ、車椅子に乗った兄と会い衝撃を受けました。兄はとても天草が気に入って夏になるとリハビリを兼ねて長期に亘って入院するようになり、それが何年も続き私もその度に天草を訪れていました。主人が亡くなって平成9年以降は毎月兄に逢うのを楽しみに出かけました。そして平成11年、天草苓北町の「楽洋の里」の渡辺先生に看取られて、天草の星になりました。両親が逝き、5人姉兄も長姉と末の私がのこり、真ん中3人が亡くなって居ます。病気になるのは嫌、痛いのはもっと嫌、死ぬのも嫌、だけど、だけど、懐かしい人達と会うことが出来る、死は怖くありません、やりたい事、やるべき事、やりつくした感があります。おまけの有難い残りの日々、悔いなく生かされていきます\(^o^)/。

兄です。
2023年10月28日更新