今日面会に行った甥の哲也!昭和38年、文子姉に待望の男の子が生まれました。可愛い子でにこにこと順調に育ちましたが、お誕生日を迎えても首が据わらず、一番初めに気がついたのは長姉でした。文姉は「この子は、未熟児で生まれたから、成長が遅いのよ」と余り気にしている様子もありませんでした。成長するにつけ、歩けない、言葉を話さない、等姉も心配してあらゆる病院を駆け回りました。そして、当時、大分県にあった「南風ビラ」という、子供専門ののリハビリ施設に入れ、自分は銀座のお店の傍ら、一週間に一度大分に通いました。退院の時は、哲也が慕っていたお手伝いさんにも川崎に来てもらって、手を尽くしました。姉の夫、勲ちゃんはいとこ同士です。勲ちゃんが、早稲田大学に通う事になって、上野の家に来て一緒に暮らしました。母と勲ちゃんのお母さんは姉妹です。結婚に際しては、周囲から猛烈な反対がありましたが結婚しました。
そして、結局、姉は哲也を連れて上野の家に戻ってきました。叔母夫婦は、「東京で育てるより、千葉の自分たちの家に引き取って育てた方が哲也の為だから、と母と姉と話し合い、哲也は千葉県流山に移りました。叔父は建設省に勤め、叙勲を受けた豪快な立派なひとでした。叔父叔母は、自分たちで歩行訓練やリハビリに励み、養護学校に送り迎えし、お手伝いしてくれる人を見つけて、とても、とても、可愛がって大事に育ててくれました。危なげながら歩けるようになり、発音もはっきりしないけどこちらの言う事は分かって受け答え出来るようになりました。昭和44年、離婚した後も姉は流山に通いました。45年8月、勲ちゃんは、セスナ機を操縦し、府中の飛田給の飛行場を飛び立ち、広島に向かい、広島の白山に激突、一緒に乗っていた友人も共に亡くなりました。翌日早朝のTVのニュースで知ったのです。あれから、間もなく50年、叔父叔母、母、姉、勲ちゃんの兄妹も皆いなくなってしまいました。遺された哲也は姉の遺言により、私達姉妹が後見人となりました。哲也は、姉に似て社交的「お茶飲んでいきなよ!」などいいます。又、勲ちゃんに似てひょうきんです。沢山の皆さんのお世話を頂いて、本人はいたって元気、朗らか、私も哲也に会った日は、気も沈みがちですが、笑顔に救われます。障害を持った家族の思いが、ある事件をきっかけに語られていますが、よく分かります。何事も運命、しっかりと受け止めて前向きに、共に生きていこうと思う日々です。


花々-24



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