こんにちは。


地域おこし協力隊の北野です。


本年から少しずつですが、新和町の歴史に触れ


詳しく調べていこうと考えております。


今回は「新和町の歴史探訪」第一弾として



「麟泉宮と経塚」



をご紹介したいと思います。



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麟泉宮は→


志岐麟泉(しき りんせん)の死後から百余年


元文四年(1739年)、天草全郡に勧進帳をまわし


寄付を得て創建されました。


戦の神、農耕の神として祀られています。


その経緯は→


天正17年(1589年)


小西行長(宇土城主)が宇土城建城に際し、普請(建設)の手伝いを命じたところ


天草五人衆のうちの志岐麟泉と天草伊豆守が



「私城の普請(ふしん)に加勢は無用。手前にも普請繁多でござる!」


↓翻訳


あたが城ば建つっとに加勢はいらんどが、おっも忙しかと!(熊本弁)」



とはねつけた結果、小西行長は激怒。ヽ(`Д´)ノプンプン


豊臣秀吉にその旨を報告したところ、秀吉も激怒。ヽ(`Д´)ノプンプン


討伐の命令を受けた小西行長は、家臣の伊知地文太夫に兵を預け


志岐麟泉に差し向けました(天正天草合戦)。



(※キリシタン大名同士、懲らしめる程度にして家臣に組み込みたい、と考えていたという説もあり)



が、志岐麟泉はこれを逆襲。


袋浦(苓北町富岡)の水際で壊滅させたのです。


小西行長は「やるな、ちくしょう!」と、加藤清正(熊本藩主)に援軍を求め


同年十月、大群で押し寄せ志岐城を包囲。


キリシタンを快く思っていなかった加藤清正の猛攻を受け


同年十一月、ついに志岐麟泉は戦意を喪失、開城を余儀なくされたそうです。



その後・・・・・・。



密かに城を抜け出し、逃げ延びた志岐麟泉は


一族である出水(鹿児島県)の島津義虎に助けを求め


出水の対岸である大多尾の地に身を寄せました。


島津義虎は数千もの兵を率いて進軍し、


獅子島の島影で策を練り、「いざ志岐麟泉のもとへ赴かん!」としたとき


一方の志岐麟泉陣営は、まさかのこれを見誤り



敵の追っ手が攻めてきた、ああ、もう終わりだ!」



と無念の涙を呑んで、この大多尾の地で自害したという伝説が残っています。


一度薩摩に落ち延び、再び大多尾に戻ってきて自害した、という説もあります。



※1.参考資料「新和町の伝説と文化財」( 新和町教育委員会発行 現在販売はされておりません )


※2.わかりやすいよう、筆者(北野)による若干の脚色が含まれております。ご了承ください。



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↑麟泉宮の裏手にあるこの大きな石の下に、志岐麟泉の骨が今も埋められているそうです。


そして、志岐麟泉の死後、家臣たちは殿の冥福を祈り


その屍を志岐に移すよう強く要望しましたが


当時の大多尾の里人たちの反発を受け


仕方なく墓地から百メートル北側に礼拝所を設けました。


それが「経塚」です。



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経塚が完成して後日。


志岐麟泉の家臣は夜襲を敢行し


遺骨の半分を奪って志岐に葬ったと言い伝えられています。


以前は、旧八月十五日の例大祭の日など


出店が並び大いににぎわっていたそうですが


現在、麟泉宮への参拝者はほとんどなく


老朽化が進み、再建や補修はなかなか難しい状況となっております。


歴史を学ぶことの重要性や楽しさと一緒に


現実の問題も実感した「新和町の歴史探訪」第一弾


「麟泉宮と経塚」


でした。地域おこし協力隊の北野でした<(_ _)>

2019年08月27日更新