毎年、この番組を観る。
 そして、ここ数年僅かだが募金をさせていただいている。
 私がこのイベントに出会ったのは、第1回目の1978年8月27日、日曜日の夕方渋谷の公園通りでキャンペーンカーに乗った萩本欽一さんと大竹しのぶさんだった。その時の私は地元の高校を卒業して、新社会人として東京に出て働き始めた頃。都会の何もかもが新鮮で色鮮やかに私の目に映る。その日もミーハーな気分で定期券内の渋谷まで興味本位で出かけて行き、そこで道路を埋め尽くす人垣に驚き、その間から観た黄色いTシャツを着て赤く日焼けした欽ちゃんの顔は、今でも鮮明に記憶している。

 その後、時たまチャンネルを替えたときぐらいしか、この番組を観ていなかった。所詮はテレビの企画した番組、という風に冷めた目でいたんだと思う。
 だが、1995年の間寛平さんのマラソンを観て、とてつもなくも感動した。阪神淡路大震災の後のマラソン。被災された方々の希望を背負ってただひたすら走る寛平さんの姿に、涙が止まらなかった。テレビの番組でこんなに涙が出るとは思わなかった。

 それ以来、欠かさず観て来た。うちは一家で24時間テレビのファンである。妻も中3の息子だ。それに私。
 2008年8月30日、31日も、難病と闘う子どもたちを見ていて、私は涙とともに勇気と希望をもらった。
 初めて聴くような病名の難病を自らの運命として真っ向から受け止め、懸命に生きる顔。また、事故で手足を失った若者が生きる希望を見つけ、その目標に向かって懸命に流す汗には、漫然と日々を生きる私に対して真実の愛を、そして人間の強さ、優しさを強烈なメッセージとしてぶつけてくるのだ。『誓い』というメインテーマに沿って、障害を障害と思わず、夢に向かって誓いをたて生きる姿は、本当に素晴らしい!

 しかし、だ。最近のテレビ番組の中には、馬鹿げた笑いを中心にした番組がたくさん。これはこれで面白いのだが、何か軽薄で違和感を感じることがある。「真面目さ」を茶化したり、馬鹿にしたような印象の番組があったりする。懸命に生きることを愚弄するようなとても嫌な感じ。
 また、民放のスポーツニュース番組(これがニュースか?)に至っては、人気のある人物(視聴率を稼げるような受けのいい人物)のみにクローズアップした構成を中心に、彼らの活躍のみに固執し、肝心の優勝した選手の名前すら流さない愚かな番組まである始末。この違和感だらけのテレビ業界にあって、「24時間テレビ 愛は地球を救う」は自然に(一部過剰な演出もあるが)人間愛を訴える番組だと思うのだ。それが制作者の術中に嵌っているということも、充分承知してのこと。

 テレビはそれ自体に悪影響が(長時間の視聴は目に悪いが)あるわけではないし、作られた番組にも良いところと悪い部分が混在する。観る人はその番組の中で、善悪の判断や情報の取捨選択を的確に行わなければならない。従ってまだ判断力の覚束ない子どもたちには、大人が番組の選択をしてあげるべきだろうと思う。
 何かの思いや情報を伝えるという行為は、生物にとって必要なこと。その伝達手段は様々である。人間は言語を覚え、文明を築き、あらゆる利器を発明してきた。その中でテレビは、近年はインターネットに追い上げられているものの、未だ多くの人々に利用されている。

 今回「24時間テレビ 愛は地球を救う」を観てとてもそういうことを思った。私たち視聴者は様々な現実に真摯に向き合ってほしいし、番組制作に携わる人たちにもその使命、影響の重大さを充分に認識してもらいたいと感じるこのごろである。
 
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