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  219日高浜地区コミュニティセンターで京都府立大学の東昇先生を講師に高浜歴史文化講演会を開催しました。今回の演題は「江戸時代の高浜村、村、迫の運営と生活」でした。

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村には庄屋、年寄、百姓代、筆者がいて、組頭(五人組)が組織され各迫には宿老(掛役)仁才頭や仁才がいて博打の取り締まりなどの難破船救助や出火出勤など警察や消防などの機能と今もお苦役などの言葉が残る道の補修や神社関係の行事が行われていたことが、今も受け継がれていると感じました。

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慶応4年の戸数645戸で今より少し多いぐらいですが人口は約3600人で今の3倍以上で17世紀末から約4倍に増加したとのことでした。

江戸後期は列強の外国船の脅威があり、白鶴浜は外国船が停泊しやすい浜であり、島原の代官所からも遠く自主防衛が迫られ高浜防衛の組織化がされたとあり、郷土の誇りである白鶴浜の視点が少し変わったように思えました。

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平成23年11月15日(火)午後2:00

高浜地区振興会「ボランティアガイド班」により、地元「高浜小学校」6年生への授業が行われました。


『地域に残されている歴史的に重要な建造物を元に、当時の歴史や高浜の偉人に関すること』を紹介!


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(一部紙芝居を用いて)


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(上田家資料館を廻り)


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(旧上田役宅へ)


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(普段見ることの出来ない内部へ)


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(役宅内にて)


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(役宅の離れにて五足の靴を紹介)


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(工場では、高浜焼きが出来るまで)


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(隣峰寺の由来を拝聴)


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(赤崎邸「白磯」へ)


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(家主、赤崎さんによる説明)


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(当時の貴重な資料を拝見)


身近にあっても知る(見る)機会がない貴重なものばかり。

約2時間をかけて、授業が行われました。


児童の学習結果は、12月4日に高浜小学校で披露される予定です!



高浜の歴史~市来屋友次郎の墓(文責:松本教夫氏 前高浜地区振興会長)

 嘉永三年(1850)七月九日、石州浜田浦(島根県浜田港)から鉄材を積み、肥後熊本に向う弁財天があった。

 持ち船は浜田港(五万石)の特別の御用を受ける名家、廻船問屋市来屋の船であった。

 出航当初はおだやかな航海であったが、八月七日平戸沖にさしかかった頃から、天候は悪くなり、肥前椛島に避難しようとしたが、船を着けることも出来ず、天草の高浜まで漂着し破船した。水主(かこ)市次郎だけ助かり、西平の光太郎の家で介抱や食事を受けた。二人は引波にさらわれ行方不明、船頭友次郎の死体だけが浜辺に打ち寄せられた。

 隣峰寺の墓地には友次郎と行方不明の水主2名が葬られている。


高浜の隣峰寺
隣峰寺

隣峰寺歴代住職の墓とともに市来屋友次郎の墓も奉られています。
隣峰寺の墓

市来屋友次郎の墓
市来屋友次郎の墓

高浜の歴史~準堤観音

準堤観音2

 幕府は邪宗(キリシタン)取締強化の布達を享和2年(1802)に出した。その頃天草西目筋に不音な空気が漂っていた。

 各村の庄屋、僧侶方に村民に仏教強化に努め、神仏を崇め道理を弁え邪宗に走ることが、無きように導くことを任務として課せられていた。

 高浜村の場合、村民を改宗に導くたの特別の方法として、上田庄屋は準堤観音信仰の推進を図った。それには二つの方法を取った。一つの方法としては準堤観音像の印施(絵像を紙に刷った物)を各戸に配布し戸口(家の入口)にこれを貼り付けるよう申し付けた。その家が邪宗でないこと証明しようとしたのである。村中申し合わせ準堤観音信仰専らにしたというのである。二つめの方法は邪宗信仰を持った怪しい集落(白木河内)に準堤観音本尊と御堂を文化元年に建立し、本尊の開眼供養を隣峰寺庵海雲和尚によって行われた。後の結果として「天草崩れ」の際(1805)、心得違いの者が他村では一千あるいは二千数百人であるのに対し、高浜村の場合、白木河内集落を中心に316人と少数に留まったことが注目される。


準堤観音堂

準堤観音1

文責及び監修:松本教夫氏(前高浜地区振興会長)



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