平成23年3月11日に発生したM9.0という大地震は、
死者、行方不明者2万5千人を超える未曾有の大災害となりました。
「自分に何ができるのか?」
皆さん、全員がその思いに駆られたことだろうと思います。
ここでは、この場をお借りして、
6月15日付け発行の会報小田床第22号の4ページでご紹介した、
鬼海生典さんのボランティア体験記の全文を写真を交えながら、
ご紹介させていただきます。
【私の災害ボランティア体験記】
バスは山道の最後のカーブを曲がった。目の前に海が見えた途端、
車内から一斉にため息がこぼれた。目に写るのは基礎部分を残して
倒壊した建物、折れ曲がった線路上にひっくり返っている軽自動車、
住宅に突き刺さっている漁船。焼け野が原になった街並み。走り回る
自衛隊の装甲車。まるで特撮映画か戦争で空襲されたあとだろうか?
どこを見渡しても普通にその光景であった。果たしてここは本当に日
本なのか。私はショックを通り越し、ただただ茫然と車窓越しにその
光景を見ていた。
↑ 火災により焼け野が原となったJR陸中山田駅周辺
↑ 津波で変形した線路と打ち上げられた軽自動車(JR山田線)
↑ 破壊されたガソリンスタンドと自動車
3月11日に発生した東日本大震災。テレビでは連日現地からの痛
ましいレポート。インタビューの中で、ある市長さんが「ボランティ
アが足りない」と。その一言に私は「被災者のために何か少しでも役
にたちたい」。その一心からのスタートであった。早速、インターネ
ットでボランティア情報を調べると、岩手県社会福祉協議会の主催で
盛岡市内から被災地にボランティアバス(ボラバス)が出ることがわ
かった。
↑ 国道45号線沿いの美化作業
4月に入って時間ができたため、本格的に準備を開始、12日の午
後に熊本を出発し、翌朝6時前に岩手県盛岡市に到着した。そこに同
じ志を持った約80名が集まり、バス2台で太平洋沿岸宮古市の南に
位置する「山田町」を目指した。
3時間後、ボランティアセンターに到着。現地の被災状況の説明を
受け、班ごとに打ち合わせを行い、活動を開始した。活動場所へ歩い
て移動中に海沿いに2階建ての老人ホームがあった。2階部分まで破
壊が著しく、屋根部分に車や船が乗っているのに驚いていると、案内
の方から「ここは当時60名の入所者がいたが、助かったとのは20
名足らず。職員さんも多数犠牲になった」と聞かされ、全員その場で
手を合わせて冥福を祈り、無言のまま活動場所へ急いだ。
初日は民宿の後片付け作業。民宿といっても基礎部分を残して、建
物は50mほど先の斜面に横たわっており、一帯には皿やコップの破
片、蒲団やタンスなどありとあらゆる物が散乱し、足の踏み場もない
ぐらいであった。その中をまずは危険な破片などを手作業で取り除き、
使えるものや廃棄するものを分別し、片付ける地道な作業を行った。
夕刻、作業も終わりとなり、泥の中から出てきた郵便物やアルバム写
真など思い出の品々を家主さんに渡すと、おばちゃんが疲れきった顔
から涙ながらに「ありがとう。民宿は再開できるかわからないけど、
もし再開できたら遊びに来て」という話に一同ジーンとなった。私自
身も「被災された方のために役にたてた」心からそう思えた最初の時
でもあった。
↑ 民宿の片づけ作業風景
それから10日間続けて、盛岡から毎日片道時間かけてボラバスで
山田町に通った。ボランティアの要請は水族館内の泥搬出や道路沿い
の美化作業、救援物資の仕分けなどほぼ毎日変わる。慣れない作業に
帰りのバスの中ではクタクタになって寝て帰る毎日だった。
そのような日々の中で、私が一番心に残ったのは山田北小学校の校
庭復旧作業であった。小学校は海から1kmほどの場所にあり、校舎
は浸水を免れたものの、段下の校庭には住宅や車などのどがれき、そ
してヘドロの山と化していたそうだ。その後、自衛隊により大きなが
れきの撤去までは行われていたが、ヘドロやガラスなどの破片はその
まま放置されたままだった。始業式もできずにいた。体育館は避難所
となっており、子どもたちが安全に遊べ、ストレス発散のために走り
回れる場所もない。始業式は1週間後と迫っている中で、ボランティ
アセンターにすがる思いで依頼されてきたそうだ。
↑ 被災倒壊した家屋と自衛隊による懸命な捜索
学校の職員室に行くと、避難所の対応や始業式準備で疲れ切った先
生方の顔。体育館に行くとダンボールで囲いを作って細々と生活して
いる避難者の方。どちらもその目は希望を失くした、悲しく遠くを見
るような目をしていた。その状況を目の当たりにし、ショックを受け
たが、逆にボランティア魂に新たに火がついたような気がした。
「任せてください。子どもたちのため頑張ります!」と言ったものの、
その作業は過酷そのものであった。作業開始から2日間はこの時期珍
しく25℃を超える炎天下。広い校庭を地道に角スコップで表土を削
り、一輪車で廃土していく作業。男女関係なく、もちろん全員未経験
者で重機もない手作業。ボランティアの数もあまり割けないため、2
班10人での地道な作業に疲労困ぱい、なかなかペースもあがらなか
った。
班長を任されていた私はかなり焦っていた。このままの人数とペー
スではとうてい始業式には間に合わない。天気予報を見ると数日後に
は雨となる。その前に作業を終わらせる必要がある。子どもたちのガ
ッカリする顔は見たくない。いろいろな思いが頭の中を駆け巡る中で、
追い込まれるようにボランティアセンターの担当者に電話し増員要請
をした。事情を説明するも難色を示したため、「とにかく現場を見に
来てくれ!」と必死に伝えた。現場で担当者に状況を説明し、メンバ
ー全員で熱い思いを伝えた。その思いが伝わり、翌日からバス1台
40名すべてをこの現場に配置してくれることになった。心から安堵
した。「これでどうにかなる」と。
それから3日間その体制が続き、また新たなメンバーの中に土木経
験者がいた幸運もあり、作業はほぼ順調に進んだ。最終日は雨の中で
の作業で、一輪車が押してもぬかるみの中に沈んでなかなか進まない
苦労もあったが、始業式前日に5日間にわたる復旧作業は無事に終了
した。
作業終了後、校長先生が「ありがとうございました。これで子ども
たちを迎える準備が整いました。子どもたちの笑顔が目に浮かびます。」
と、今までに見せなかった笑顔で話をしてくれた。実は被災当日、
病気のため自宅で静養していた児童2名が亡くなっていた。それにも
かかわらず、校長先生の気丈な振舞いに、我々メンバーの中には感極
まり涙している者もいた。
今回のボランティア活動では被災地の悲惨な光景に加え、テレビに
は映らない、異臭、ほこりなどを含めて五感すべてで現地を感じてき
た。確かに最初は自己満足の感もあったかもしれない。しかし、被災
地の皆さんの厳しい状況下でも必死に生きようとする姿を見て、日が
経つごとに自分の中に生まれて初めて心から「人の役に立ちたい」と
いうボランティア精神が着実に培われたともに、自分の中にある人生
観にも変化が生じた転機ともなった。
「神は乗り越えられない試練は与えない。まず一歩前へ!」これは、
私が現地の伝言板に残してきた言葉である。心から被災地の復興を願
うとともに、遠くに離れていても気持ちは一つに前に進んでいきたい
と自らに誓い、言い聞かせた言葉だった。