*浜名志松編(天草の民話より)


・・・「天草の大蛇」より抜粋・・・


                     <池田池!>


大蛇伝説



◇天草には下島にある四つの大池に、昔、それぞれ大蛇

   が すんでいて、あわれな昔話を残しています。

  池田の池は、昔、大津波が海底の砂をゆりあげ、湾の入

  口をせき止めて池となったもので、湾口にゆりあげられた陸

  地のようになった土手の海岸にはアロエの老樹やその他の

  亜熱帯が繁っています。

  池にはヒシやハスが群生していますが、この池のハスは昔

  から食べられないと言われています。

  食べると頭の毛がぬけてしまう、と信じられているのです。

 それはこの池に昔男の大蛇がすんでいて、山を越えた大江

  のおまんが池の女大蛇に通う時、岩角で大蛇の腹をすりむ

  く のでものすごい血が流れ、その血が池に流れこんだため、

  ハスの根が食べられなくなったと伝えられています。

  あるとき、池田地区の九平という人が、朝早く池の端に水を

  汲みにいくと、ハスの花の上に一人の顔立ちのよい若衆がす

  わっていました。

 若衆は九平の姿を見ると、とてもあわてて、「わたしは、この池

  の主の大蛇の化身だが、わたしの姿を見たことを絶対に言わ

  ないでくれ」と手を合わせて哀願するのでした。 

 しかし、九平は自分だけの胸にしまっておくことができず、「お

  れがこの池の主の姿を見た。きれか若衆じゃったぞ」と人々に

  言いふらしたのです。

 ところが九平は目を悪くして目が見えなくなったうえ、妻は気が

  狂い二人の子どももかたわ者となり、ついに親子四人とも死ん

  でしまったということです。

 この池田の男大蛇は、天草町大江のおまんが池の女大蛇のと

  ころに、毎晩通っていたのです。

 天草町大江のおまんが池は、池田の池と同じように、大津波に

  よってできたもので、天草西海岸の荒海に面しています。

 おまんが池と名づけられたのには、こんなわけがあるのです。

 むかし、ここで大船を造っていたのですが、できた船を浮かばせ

  ようとしたときになって船が動かず、船大工や村人たちは困り果

  ててしまいました。

 「どがんしよか」

 「どがんも、こがんもこがん動かんではしょうはなか」

 「困ったもんじゃ」

 「こがん時は女の子の人柱をたてれば、船は浮くということじゃが。

  そがん娘はおらんぞな」

 一人の老人が考えあぐんだように言いました。人々は人柱と聞い

  て黙りこんでしまいました。」

 すると、腕組みをしていた船大工の頭が、

 「おれの娘ば人柱に立てよう」と決心したように言いました。

  その翌日、娘のおまんが人柱に立つことになりました。

 おまんは田舎にはめずらしいきりょうよしで、小町おまんと言われ

  るほどの、気立てのやさしい美しい娘でした。

 柱にくくられたおまんが村の街道をかつがれて行く時、村の人た

  ちは嘆き悲しんで声をあげて泣く者さえありました。

 造船場のある池の東端に穴を掘ると、柱にくくられたままのおまん

  が,足を伸ばしたまますっぽりと埋められました。

  するとどうでしょう、池の水がみるみる増してきて、船をすえている

  台ともどもらくらくと浮いてしまったではありませんか。

  それからこの池は、おまんが池と呼ばれるようになりました。 

 夜になると、池のほとりで若い娘の泣き声が聞こえるといううわさ

  が 広がっていました。そしておまんの魂が池にしずまり大蛇となっ

 た ということです。


  おまんが池の女大蛇は、気がやさしく独りで淋しくくらしているという

  ことでした。

  それを知った池田の池の男大蛇は、何とかしてその女大蛇のところ

  へ遊びに行ってみたいものだと思っていました。

 そしてその機会をうかがっていました。

  ある日、夕方から暴風雨となり、雷がとどろき、海は荒れ狂い、山は

  一時に流されてしまうかと思われるほどの悪天候となってきました。

 池田池の男大蛇は、今夜こそおまんが池の女大蛇をたずねようと、

 おりからの雷雨に池をはい出しました。おまんが池のある須賀牟田は

 海をへだてており、唐干田という山部落を越えて海を泳ぎ渡らねばな

 りません。

 海岸は絶壁になっていて、海が荒く海の難所となっているところです。

 部落の家々は雷雨と暴風に怖れおののいて戸をぴったりとしめ、池か

  らはい出た大蛇に気づく者は一人もありません。大蛇は、池田の海岸

 に出ると、唐干田部落の低くなっている田圃を伝って山へ登っていき

 ました。

 大蛇の腹は岩角で傷つき、血が小川のように流れるのでした。

 雨水は大きくなり、迫(山と山との間の低くなった峡のこと)の田圃には

 泥水が滝のように流れています。唐干田の峠に出た大蛇は、鎌首をも

 たげてはるか向こうのおまんが池の方を望んでいます。

 雷光のとどろくたびに、荒れた海や向うの島山がはっきりと照らし出さ

 れます。

 男大蛇は一直線に海岸の絶壁を荒海の中に突っ込んでいきました。

 海の上に落ちこむと、くるったように羊角湾を泳ぎ渡り、おまんが池の

 海岸にはいあがりました。

 そして、小さな松林をぬけて、おまんが池に静かにはいっていきました。

 おまんが池の女大蛇は、始めての男大蛇の来客にたいへん喜んで,

一夜を語り明 かしました。

「もうお帰りにならなければ、夜が明けまする人間どもは人ごとについ

 てはうるそうございまする」と女大蛇にたしなめられて、男大蛇はまた

 海を泳ぎ渡って池田の池に帰りました。

 まだ、その夜は明け方まで暴風雨が続いていましたので、部落の人

 たちは誰一人として知る人はなかったのです。

  それから、池田の池の男大蛇は夜毎に大江のおまんが池まで通う

 よう になりました。

  部落の人たちはようやく男大蛇の行動に気づいたようで、

 「大蛇が夜になると、唐干田を通って大江のおまんが池に行くごた

 る」と 誰言うとなく うわさがひろがりました。

  大蛇の行く時刻になりますと、雷雨をともなってにわかに大雨となり、

  洪水が起こるのでした。大蛇の腹のうろこが岩角について血が流れ

 ているのを見たという者も出てきて、部落の者は、洪水の起こるのは

 大蛇が雷雨を呼び寄せるためだと信じるようになりました。

 大蛇の通ったあとは、植えた稲の苗も甘藷の畑も、みな沼のようにど

 ろどろに流されて、作物もできなくなったのです。

  そして、飢饉が続きました。

 「困ったなあ」

 「これじゃ、大蛇のために部落の者が皆飢え死にしてしまう」

 「何とか大蛇を池から出さぬ工夫はなかかいな」部落の者たちは、寄

 ると腕組みをして困り果てていました。

 ある日の夕方、一人の旅僧が池田にやってきました。この大蛇の話

 しを聞いた旅僧は「そりゃ、お困りだろう。大蛇は神通力をもった魔も

 のじゃ。人間の力ではどうにもならん。日輪様のお力を借りて、大蛇

 の道を絶ち切るよりほかにない」と自信たっぷりに言いました。

 「日輪様というと天道様のこつですかい」

 「さよう、天道様すなわち日蓮様じゃ」 

 「それをどうすっとですか」

 「大蛇の通る道に天道様の像を刻んで、南無阿弥陀仏と字をほりこ

 むのじゃ」

 旅僧はそう言い終わると、すたすたとどこかへ行ってしまいました。

 部落の人たちは旅僧から言われたとおりに、日輪を刻むことにしまし

 た。

 唐干田部落の入口ある数メートルの自然石に日輪を刻むことにし

 ました。

 この自然石は固い岩石の切りたったもので部落道の右側になって

 いて大蛇通り道になっていました。頼まれた石工は身を浄めて

 日輪の彫刻にかかりました。

 数日して、見事な日輪の像ができあがりました。直径30センチの満

 月のよう日輪の像の下に、南無阿弥陀仏とお経の字句が刻みこ

 まれました。

 部落の人たちは半信半疑でしたが、それ以来暴風雨もなくなり、農

 作物の被害も無くなったのです。

 大蛇の通った形跡もなく、池の水は澄みかえって、夏になるとハスの

 花が美し咲きそろい、秋になると豊かな稲穂がみのって豊作となり

 ました。部落の人たちはこれを切石様と呼びました。

 ところがその翌年になって、西海岸に漁火をたいてサバやアジを釣

 っている釣り舟が転覆して、漁師たちが災難にあって溺死すること

 が多くなりました。

 それが突風も吹かず、波も静かな夜に漁船の事故がつぎつぎに起

 こるので不思議でなりません。

 「こがんことは今までなかった。こりゃ、きっと池の大蛇が遠見岳の

 沖を通って海から大江の池に行くとじゃろ」

 「あの切石様を刻んだけん、大蛇が山の方ば通れんから、そうも考

 えられるのう」「風も吹かず、波もたたんのに、急に竜巻がして船が

 ひっくりかえるって、こがん不思議なことがあるかな」

 部落の人たちは、よりあって何日も相談を重ねています。

 「ものはためし、海の方にも切石様をつくったらどうじゃろか。おれは

 この前晩、先月サバ釣りに行って死んだ磯吉が夢枕に立って、大

 蛇の尾で船をかえされたて死んだという夢を見た。大蛇のしわざで

 あることはわかっとるや」

 部落の宿老といわれている吉平が思いつめたように言います。

「吉平どんの言うごてしてみたらどうかの。そうしたら大蛇はきっと海を

 通れん ごてなるじゃろ」

 部落の人たちは西海岸の岩にまた日輪を刻むことにしました。

遠見岳の突端八つ崎と呼ばれ、数十メートルの断崖と絶壁になっ

ており、潮は急流となって渦を巻いて流れています。

 その岬を北に回ると、長山の浦といってやや入江になっているとこ

 ろがあります。そこに三角形に突き出た岩があり、その岩に大蛇

 が巻きついた跡がありありとついていました。

 「この渚のところが大蛇の通り路じゃ。八つ崎の速潮を泳ぐとくた

 びれるけん、 ここで一休みして大江の方に泳ぎ渡るとじゃろ」

「なるほど、この瀬の西側のひらっべたかところに日輪様を刻めば、

 大蛇は体がしびれて海は泳いでいけんわい」

人々の意見がまとまると、石工が彫刻にかかることになりました

波の静かな 陰暦三月三日の節句を前後に、刻むことになりました。

大潮の時の干潮時でないと仕事がしにくいので、一年中でもっとも

干満の差のひどい三月三日前後を選んだのです。

石工がたんねんに刻んで、三日間で見事な日輪の像が刻まれました。

人々はそれを小舟で沖の方から眺めてため息をつくほどでした。

日輪の像は周りの円を深く彫り込んであり、遠くの海から見てもすぐ

目にはいるとてもあざやかなものでした。

人々はこれを三日月瀬と呼ぶようになりました。

それから、さすがの大蛇も海を泳ぎ渡らなくなり、漁船の遭難もぴ

ったりと止んでしまいました。

 池の主の男大蛇は、それ以来池から出なくなり、池にしずまった

 と言われています。

 部落の人たちは池にしずまった男大蛇を慰めるために大蛇の像

 を刻んで、それを石の祠の中に納めてお祭りをするようになりました。






 








 











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