当館では、平成20年度の事業として、彗星の発見者(コメットハンター)として有名な関勉氏(高知市在住)の天草での講演会を企画中です。

 天草の中学校・高校で講演して頂く予定です。ご希望の学校はご相談下さい。

   問い合わせ先は、NPO法人天草数理科学館まで。

  FAX:096-368-8547  E-mail:matsuzaki@npo-amakusa.jp

 

  著書「道の星を求めて」より、第2章戦禍の果てにから第1節「あこがれ」を著者のご許可を得て転載します。

   Ⅱ 戦禍の後に
  あこがれ
 ある有名な詩人は、“世界の中で美しいものは、人の心と天上の星”と歌った。
 また、ある天文学者は、『もし、世界中の、多くの政治家たちに星の知識があれば、永遠に戦争なぞ起こり得ないであろう』と発言して嘆息したという。
 実際、星空の美しさを知り、広漠たる宇宙の中に於ける人類の微々たる存在を知る時、人々は、地上に於ける人類の争いが、如何に見苦しく無味乾燥なものであるかを、一層痛切に感ずるであろうし、また、吾人は天文学を学ぶことによって、広大な精神が養われて、世間は、もっともっと明るく、素晴らしいものになるかも知れない。と、一人夢のような事を考える時がある。
 星というものが、これほど美しく魅力あるものであるにかかわらず、多くの世人に注目されない事はまことに残念であるが、一つには、現代の都会の喧騒とネオンは、われわれに、それだけの心のゆとりを与えないのであろう。
 かつて、私が、最初の彗星発見に成功した、一九六一年十月のある日、東京の新宿に住む定時制の女子高校生から、次のような手紙をもらった。いわゆるファンレターの第一号である。
[私は昼間働き、夜は学校に通っている一高校生ですが、生まれて一度も星というものを見たことがありません。でも、私の父は大変星が好きだったらしく、病死する数日前まで、星の記録を書き続けていました。
 私は、関さんの事を今朝の新聞記事で知った時、このほこりっぽい世の中で、十年以上もの長い間、空の星を見つめて生活している人がいるかと思うと、全く夢のように思われてなりませんでした。かつて紀州の故郷で、父に育てられた幼い頃を思い出し、なつかしさの余りついお便りする気になりました。これからも、どうかお体に気を付けてがんばって下さい。かしこ]

 私は、この少女からの文面に接した時、何ともいえない気持ちを味わったものである。昼間は、塵煙や、スモッグの中に閉じ込められ、夜はネオンの海の中で生活している、現代の都会人には、大自然の美しさに接する機会が、ほとんどないのであろう。と、一種の哀切さえ感じたものであった。
 それから、更に十ケ月ほど経った夏のある日、少女から再度の便りがあった。それは美しい山の絵はがきに書かれたものであった。
[関様、お元気ですか。私はいま長野県に来ています。友人たちと日本アルプスに登り、すさまじいばかりの星の光を、生まれて初めて発見し、驚きました。あなたの星と取り組むお仕事の意義が初めて分かったような気がいたします。雪山へ登って、誰も踏んでいない雪の上に、あなた様のお名前を書いて来ました。]
 この人は青山神春と云って、その頃、新宿区余丁町一一二番地に住んでいた。彼女は山が好きでよく登った。世の中に美しいものと純粋なものを求めて生きようとした。そして鋭いセンスを持っており、いつも詩のような美しい文の手紙を書いて来た。
 一九六一年十月、私の新彗星の発見に、いままて知らなかった星の世界が突然、彼女の許に降って来たのだ。
 星を追う私の姿が偶像となって彼女の心に深く根を降ろした。彼女が勝手に作り出した理想の人間像に憧れ、永遠なるものを感じていたに違いない。
 それは恋と云うには余りにも冷静であったが、彼女が生まれて初めて体験した異性への思慕であり、情熱であった。
 神春との文通は二年余り続いた。ある夏の日の彼女の手紙の中に、こんなのがあった。
[ある朝、早く起きてみると朝顔の花が咲き誇っていました。早朝の清らかな空気の中だけしか咲かない花を尊いと思います。紫色の花片に、遠い故郷の海の色を連想しました・・・。]
 そして秋の日、
[私は夢の中で知らない海岸を歩いています。それは土佐の海に違いありません。小さな貝がらを見つけて、そっと海に投げてやりました。あなたが、もし海辺を歩いていて、この赤い貝を見つけたら、きっと拾って下さい。かみはるより]
 彼女は、いつか桂浜の海を見たいと云っていた。しかし私は彼女と会うのに積極的ではなかった。なぜなら折角描いた少女の美しい夢が、現実によって壊されたくなかったからだ。永遠に美しい夢物語として、彼女の胸にそっと深く、しまい込んでいて欲しかったのである。彼女からの便りは、一九六三年十二月、富士と湖を描いた一枚の絵ハガキを最後に、永遠に絶えた。
 しかし、それから何年か経って、古い手紙を整理しているとき、どうした訳か、彼女から来た一通の封書が、開封されないまま、仕舞ってある事実を発見して愕然とした。なぜなら手紙には、彼女が夜行列車に乗ってはるばると高知にやって来たらしいことが伺えるのである。高知に着いた彼女は一体何を見たのであろうか?
[・・・私は黒い門のお家の前に立っていました。東の空から低くオリオンが昇って来ました。この門の中では、きっとあなた様が星を見つめていらっしゃるだろうと思って、私もいつまでも、いつまでも星空を見上げていました・・・私の勉様へ。]
 彼女は、折角高知にやって来たのに、私を訪ねる勇気が無かったのであろう。私の家を尋ね当てたものの、固く鎖ざされた門前に立って、私が見ているであろう同じ星空を見上げていたのである。やがて黎明の光が射し始め、彼女の顔を流れる幾筋もの涙を映し出したことであろう。何と美しい一途な乙女心であろうか。
 あの日から三十余年も経ったいま、神春は何処の星の下で生活しているのであろうか? 乙女のころの美しい夢は今も、心に宿り続けているのであろうか。
 さて、私が生まれて初めて星の美しさを知ったのは、かつての、第二次世界大戦中の事であった。それは、戦いの趨勢もほとんど決した、昭和二十年七月の事である。
 われわれは、憔悴と絶望にもだえ、連日連夜、連合軍の爆撃機B29の無気味な爆音に脅かされていたある夜、ふと頭上に星が輝いているのを発見した。
 連日、真暗い壕にもぐり、一本のローソクの火すら灯すことも許されなかった、当時の原始的な生活は、光に対する人間の神経を、異常なまでに敏感にしていたのである。
 暗黒の街の空に輝く点々たる星影は、かつて平和に暮らした、遠い家の灯を思い出させたのである。それは、あたかも生への一縷の望みをつなぐかのように、私の心に深い印象を与えたのであった。
 当時、僅か十三歳の少年だった私は、夜ごと壕をはい出しては、屋上の物干しに登って遠くの星を眺め、ひそかに涙ぐんでいた。地上には、一つの灯火すらなく、私の心にも、一つのともしびすらなかった。
 暗かったあの頃、明るいものを求めて、夜空を見つめていた私の心に、いつの間にか、星空への“あこがれ”が芽ばえ始めていたのであった。
 その頃、よく廃墟の街を歩いた。戦火に焼かれた町は、まるで赤い砂漠のように広く荒涼としていた。巷を歩きながら、きまって星空を仰いだ。実際、星ばかりが美しい時代であった。間もなく、戦争は終ったが、それに続くインフレと、大変な食糧難は、私に星を眺める精神的なゆとりを与えなかったのである。
 やがて、社会の秩序も、ようやく回復し始めた昭和二十三年には、二つの大きな天体現象が起こって、学俗の大いに注目するところとなった。その一つは、その年の五月九日、北海道礼文島に起こった金環日蝕であり、もう一つは、十一月十三日、暁の東天に突如として現われた大彗星であった。
 これら二つの天体現象は、当時、高等学校の学生だった私の心に、深い印象を残したものである。敗戦期の混乱によって、いったん忘れかけていた星空への情熱を、再び励起する事となったのであった。

 

2008年05月02日更新
キーワード: 彗星 学校講演会